高さは30cmくらいの、ほんのり笑顔の大黒様です。これうちの亡親父の作品のひとつです。
自宅の玄関正面に鎮座してます。のみの彫り跡がいい味ですね~。幼少の頃は、「ペーパーでツルツルなんでせんの?」と言ってましたが、「このノミの形がよかとこ」と言われていたのが、段々と分かってきました。ひとノミ、ひとノミ、ひと跡、ひと跡に魂を感じます。
加島香清・純木ギャラリー
DNA
金槌で外壁をトントン打っていた兄、「ノブコ、これと同じ釘を探してくれ」「はい、お兄ちゃん」、
工具箱には、釘をやらネジやらが、ごちゃごちゃ。その中から、言われた釘を言われた数本より多く探し出し急いで外のお兄ちゃんに渡す。また、急いで工具箱に戻り、今度は釘抜きとペンチを持って行く。兄が釘を打ち損なった所で、「はい、釘抜き」と出す。
また、「たばこ!!」と言われただけで、「はい、おとうさん」。
と、たばこ、マッチ、灰皿の三点セットで持っていく。
ノブコとは、私の亡くなったおふくろです。
こんなことを、よく聞かされてましたが、"一を聞いて十を知る"ような人でした。
私が中学2年生頃だったか思いますが、親父とおふくろが、10個ほどの大きな紙袋に入ったものをマンモストラックから降ろしてました。中身は毛布が10枚くびり。ですから、全部で100枚。ウールの肌触りのいい毛布でした。
マンモストラックの運ちゃん、東京から九州に、マンモストラックで走ってきたものの、途中で勤めていた会社が倒産したことを知り、積んでいる毛布を売って現金にしないとガソリンも買えなく帰れない、ということらしかった。この毛布をいくらでもいいから買ってくれと切実に頼んだらしい。毛布の品質はいいから、どこでも売れるからと。こういうのに弱かったらしく、そんなに困っているならと購入することに。しかし、夜中、手元に現金はないからと小切手で支払い、翌朝銀行で取りなさいと言っていた。
一夜明け、やっぱりおかしいんじゃない?盗品じゃない?暴力団では?と両親は慌ててました。そして、銀行が開く前に、銀行にその小切手の支払を止るように連絡しました。しかし、その後、運ちゃんから連絡はなく、商品を取りに来るかも、暴力団だったらどうしょうと、ビビク。包んだ袋には、触っちゃイカンと一年据え置きとなり、もう、こないだろうと、その後はいくらか使ったものの、肌触りはいいものの、どういう経緯でここにあるか分からない商品は、さすがに気持ちとは言い難いものでした。
数年、大きな紙袋のままありましたが、いつしかなくなってました。
あの、運ちゃんは、何者であったかは?です。
昨年のメタボ検診で87cm。「アウトですね」と女医さんから言われてしました。でも、それ以後もへっこむ見込みはない。現在がベスト体重と信じてます(^^;)
うちの親父、おふくろが言っていたことを、ふと思い出しました。交渉事は"腹だ"、"腹"。つづいて、「お前は、腹がない。肝が据わってない」と付け加えられた。私は神経質で理論派で小心物です。「お前は、腹がない」と言われて、当たっているだけに、ガックシでした。
でも、一か八かの一代と、それを引き継ぐ二代目は考えが違っていいハズ、と思っています。"腹"は、熟慮した結果のエイヤ!で、なんの裏打ちもない、エイヤ!は、バクチと同じじゃんです。
理論的に考えるのは、どうもパソコンのせいと思います。パソコン、特にブログラムは、理論的に出来てないとできません。また、文字一個違っても動かないのは、神経質の強化にも(^^;)
倒産企業の社長に多いのが、この"腹"芸をする人に多いと思うのは、私の思いすぎかも。でも、思い当たる方は多々あります。親父に勧められた人もいました。「あいつと仲良くなっておけっ」て。でも、どうしても私とは人種が違うというか、気が進まないというか、、、、と、その内に倒産されました。
「経営」は繊細と思ってます。大胆にハデは、とてもじゃないけど、ついて行けません。地味にコツコツです。私は神経質で理論派で小心物です。今後とも、よろしくお願いしますm(__)m
ベランダに露天風呂であればな~~と調べてましたら、私が小学2~3年の頃のことを思い出しました。
写真のような、木の風呂を親父が作ったのです。浴槽内に金属の筒状のものがあり、それに木屑を燃やして温めるようになってました。底の隅に、手の平を広げたくらいの穴がありました。
その風呂、作りかけで、逆さ伏せて置いてありました。下の方に敷棒をして隙間があったので、そこから中へ。そしたら、何かの拍子に、木の風呂が敷棒からズレて中に閉じ込められてしまったのです。
穴は空いてますが、小さすぎで顔は出せません。かといって、風呂を押し上げね力もありません。馬鹿なことをしたと思いましたが、弟共にバカにされそうだったので、待つことに。そのうち、見つけてくれるだろう~と思ってました。
でも、だんだん日が暮れくるのに誰もこない。シ~~ンです。困ってもどうにもなりません。どう頑張ってもでれません。とうとう泣き出してしまいした。そこで親父が気付いてくれ、やっと外に。いやいや、あの時はほんとに心細かった。狭いところが嫌いなのは、どうもその時のトラウマのようです。いま、これを書いてて分かりました。
もう、30年ほど前だと思うのですが、高速道路のトンネル内でパンクしたことがあります。長崎高速道の東彼杵インターの北のトンネル内です。当時は、中央にポールが立ったでけの対面通行のトンネルでした。
私は2トンのロングを運転して長崎まで搬入に。弟の専務も同乗してました。トンネルに入ったら、ゴトゴトといいだしたので、道路を少し削った工事の後かなと思ってました。そしたら、そのゴトゴトは段々大きくなってきて、バンクかも知れないと思った。ハンドルをしっかり握りしめましたが、思ったほどブレてない。
このまま止まったら、後続車に追突されるかも知れないと、非常駐車帯まで、そのまま走りつづけることに。タイヤは、一瞬にバーストして、ハンドルを思いっきり取られるかも知れない状態。減速はしたものの、へんにブレーキを踏んだら、トンネル壁に激突、横転、炎上するかも知れないと思ったので、アクセル少しつづ緩めた。幸い、前方にも後方にも車がなく、私も思った以上に冷静だったので、ゴトゴトいいながらも、なんとか、トンネル(長さ2km)の中央付近にあった非常駐車帯までたどりついた。
トンネルは多少湾曲していたので、どちらをみても、入り口も出口も見えない。ともあれ、他の車の邪魔にならないところに、無事留めることができたので、レスキューが来るまでのんびりと待ってました。でも、あとで考えるとゾっとします。
−後談−
レスキューが来てタイヤを交換。タイヤ外しは、私がやりました。延長パイプを使っていたのですが、なんとタイヤのネジを一本、折ってしまいました。弱り目に祟り目です。したなく、5本ネジでなく4本でタイヤを交換して、ジワジワ徐行で、即インターを降り車屋さんに直行でした。当然その日は搬入できず、お客様に事情を話し、翌朝早くでお許ししてもらいました。冷静だったつもりでしたが、タイヤ外すまで、ずっと緊張していたのでしょうね。
昨夜、菜種月の満月。ポリ桶で露天風呂してボケーと堪能して見てました。あ~あの月に人類の足跡が残っているだ~と思ってね。
アポロ11号が月面に降りたとき、リアルタイム中継でみてました。部活は夏の合宿でしたが、この歴史的瞬間をみたくってサボリました。アームストロングが、月面に立ってのあの名台詞には感動しました。
「That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.
(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。)」
そのあと、記念レコードがでましたので購入、いまでも私の大切な宝物のひとつになってます。また、月着陸船のプラモも何個か作りましたが、お小遣いがなくなり、紙で作ったりもしてました。
月面着陸は、すべてコンピュータオートで行う予定だったそうですが、ドタンバになって着陸地点がずれた為に手動で着陸したそうです。訓練されていたとはいえ、最後に機械でなく、人間の手で操縦されたことも、あとで知り、パイロット職人だな~と思った次第。
なお、私のニックネームは"MOON"といいますが、アポロ11号とは関係ありませんm(__)m。でも、潜在意識の中にはあったかも。
これまた古い話だけど(^^;)・・・この手のカデゴリは"DNA"です。
それは、さかのぼること、約30年前。いの自宅兼ショールーム兼事務所ではなく、仮事務所のような自宅だった頃の話。
当時、私は経理事務をやってました。通帳も現金すべて私の管理下。毎日、その手持ち現金を、記帳したのと、きっちり合わせるが心地よい(^_^)
とある朝、いつものように引出しを開けてみたら、あるはずの通帳がない。おかしいな~、おふくろがどこかにやったかな?おやじか?
尋ねてみても、触ってないゾーーという返事。泥棒?サイフはある。
が、、、、えっ!!、中身の現金がない。毎日きっちりと合わせているので空ということはない。
あっ!!クレジットカードもキャッシュカードもない。
窓は破られてない、ガサガサ触った感じもない。もちろん、夜中に音もしなかった。
でも、確かに、泥棒にやられている。青ざめてしまった。
現在の時間7時半。
銀行が開く前に電話して、すべての口座をストップ。クレジットカード会社にも電話してストップ。営業時間がはじまる前に、すべてストップさせた。あとで分かったが9時ちょうどくらいにキャッシングされた形跡があったということだった。ギリギリセーフだった。現金は、手元にあまり置かないようにしていたので、3~4万円が実害となった。
ほんとに、まさか泥棒に入られるとは思ってなかったので、玄関とか、窓とか、鍵閉めをしてなかったこと。泥棒は玄関から入って、堂々と引出しを物色し、触ってないようにまた元に戻すという几帳面?な奴でした。後日、捕まりましたが常習犯。まったく知らない奴でした。
その後は、施錠は勿論ですが、防犯ベルを設置。貴重品は、自室に持って帰ることにしました。現在の建物には、さらに、各階に防犯ベルが付き、1F事務所の貴重品は、すべて3Fの自宅に引き上げます。また、高性能の番犬も2頭いまして、不審者が100m範囲に入れば吠えまくります。
皆様もご注意を。
写真は、車に閉じ込められた時の緊急脱出の道具です。名前は、ResQMe といいます。手の平らに収まるほどに小さいのですが、シートベルトを切るカッターと強力なバネ仕掛けのハンマーが付いています。
以前から、一個はあったがいいとは思っていたので、レジへ。
ピ!
3,990円です。え!高!
高くても1000円ほどと、値段をみてなかったので想定外(^^;)
でも、これ持っていた方が安心と思ったことがあります。
まず、30年ほど前のこと、うちの社員がトラックで他の社員2名を送迎していた際、堀に落ちるという事件があったことです。路肩が弱く、ずり落ちるようにして堀に傾いて落ち、窓を開けて、水没する前に3名とも脱出し、ことない終えたという話があります。この時代は、手回し窓でしたら、 よかったかと思いますが、逆さまに落ちたり、水没していたら、と思うと、ゾッとします。
また、ある家具屋さんの展示会応援に行った時に、ガシャンと車が当たる音。でてみたら、十字路で出会い頭に車が衝突。一台から人はでできましたが、もう一台は、じっと動かない。車は壊れているものの、大ケガする程度には思えない。家具店の人が、近寄ってみたら、。運転者は妊婦さんで、どうしていいのか中でパニック状態。家具店の人がドアを開けようとされましたが、ドアロックして開かない。開けてあけてと、手真似されてましたが、中では、アワワワ状態。他のドアも全部ロック。2~3分だったか、少し冷静になられたのか、やっと、妊婦さんロック解除。体は無事でした。
こんな時に、この緊急脱出具を持っていたら、バチンで一発で助けることもできると思いますが、自分の為に使うことはないように願いたいものです。
最近私の知り合いに心臓ペースメーカーを入れられた方があります。ある日、突然、心臓がガックンガックンと体ごと左右に振れる感じがして病院に行ったら即入院だったそうです。大事にはならずにすみ、ペースメーカーを入れ1ヶ月ほどで退院されました。
それで思い出したのですが、私のおやじは心臓悪かったのでした。生まれ付き、心臓の片方が小さい、とかだった思います。
私が中学2年生頃だった思いますが、おやじが外出先から帰って、すぐ小部屋に行ったかと思ったら、顔は真っ青、転げ回って七転八倒。気丈夫なおやじでしたから、ビックリで慌てました。おふくろも不在だったので、急いで近所の人を呼んで、医者を呼んでもらいました。
そして、ニトログリセリンという、鼻くそくらいの小さいお薬を舌に。そんなもので治るのがと半信半疑でしたが効果はてきめん。たしか、2~3分くらいだったと思いますが、ケロッと収まりました。病名は"狭心症"
暑い夏、冷房の効いたところから、出たらなんかおかしくなり家に帰って、ほっとしたとたんに苦しくなったとか。胸に何か重い物を乗せられたようで、とても苦しかったそうです。それ以来、ニトロはおやじの携行品となったのでした。おやじは軍隊では衛生兵(医者ではない)、"狭心症"を知らなかったのでした。
高校3年で思い出したことが。
工業高校は男子校。でも、女子もいました。工芸科には40名中8人くらい女子。建築科にも2~3人。機械科は0人だった思います。工芸科は1クラスだったので3年間同じ顔。バイクではほとんど事故ってました。退学した奴、中途で入ってきた奴、図体はでかくて女性マンガ描く奴、握力が自慢な奴、それと、私みたいに変な奴も(^^;)
卒業まじかの12月か1月頃だったと思いますが、私の長袖の体操着を隠した奴がいて、私だけ半袖で過しごました。
怖い体操の先生でしたので、隠されたましたとも言えずば、他の体操着でいいですかとも言えず、買ってもあと数回しか使わないのも分かってましたから半袖で我慢。
先生は私の半袖姿をみて「寒くないか?」「大丈夫です」「よし」でした。
でも、準備体操さえ我慢すれば、あとはサッカーかバスケットかラクビー。動きだしたら、寒さはなくなると分かってましたから、けっこう大丈夫でした。結局、卒業するまで体操着はでてきませんでした。誰が隠したのだろうかな~~??俺の体操着。ひょっとして女子??
先日、パソコンの話を書きましたのが、私は木工は素人で口先ばかり?と思われている方もありそうなので、木工の経験について書いておきます。
大川では毎年10月に木工祭というものがあります。この催しは、大川市の大川家具産業会館、大川中央公園がメイン会場に市内全域で、いろいろな催しが行われ、市内には駐車できなくなるほど賑わうお祭りです。
ところで、この木工祭には思い出があります。私の行った高校は大川工業高校。それも工芸科。3年生になったら専攻分けされます。デザイン、塗装、生産。私は、"生産"を専攻しました。そこでは課題は、卒業記念として、木工祭に出品する作品を作らなければならない、でした。
しかし、そう分かってはいたものの、いざデザインを起こすとなると、なかなかアイデアは浮かんで来ないものです。当時、私の会社では、仕口の込んだ民芸調の茶棚とか作ってましたから、私も、そのようなものをデザインして、先生にみてもらいました。
ところが、仕口の部分の説明も聞かず、形だけみて、これなら、10本くらいできるじゃろうね。やり直しと、一笑されました。角々は七宝組み、柱は印籠ほぞ、等々、職人の技を満載していたので私自身の挑戦でもあったのですが、、、、、
それでムカっと来まして、それじゃ形で凄いジャンと言わせるようなデザインをしました。先生のご意見は、できるの???でした。それは和風から一変、彫刻入り洋風ドレッサーでした。
工芸科には糸鋸ミシンがありませんでしたので、建築科に借りにいきました。彫刻も、おやじ譲りの腕ですから、平彫りくらいなら、存分にやれてました。これらは、授業で教えてもらったものではありません。ミシンも彫刻も、おやじに手伝ってもらったろうが、、、と言われるのがシャクだったので、すべて学校でやりました。
先生の一人は、彫った側でなく、その裏側の平らな面をしげしげと見、また、彫った面をみて、ようできるな~~と感心してみてました。私にとっては、当然のこと。
できあがって、木工祭会場に運びました。先生が価格をつけました。価格は、なんと材料代のみ。3万円だったと思います。(36年ほど前)。これにも、私は憤慨しました。私のデザイン代、技術代は加味されなかったのです。
私の作は、某デパートが、即効で買い付け売れました。あとにも先にも、売買成立は、私のだけだったそうです(高校初で最後ということです)価格の付けたかに不満はあったものの、販売するということでもあったので売れちゃったか~~でした。
でも、それで終わりではありません。それから、またドラマが、、、。
木工祭の搬出では軽トラックが使われました。もちろん、先生の運転。
それは学校の構内に入ってからのことでした。構内の凸凹道で車がバウンドしながら走っている。たまたま私は後ろから見てました。荷台に乗っていた私の作品は、右に左に大きく揺れている。ああ、このままじゃ落ちてしまう。シャイな私はこの時ばかりは、教室にいた生徒が乗り出すほどの大声で「ストップ、ストップ、ストッーープ!」と叫びましたが、間に合わず、私の作品は、彫刻したカガミ部分が、もんどり打って落下。七宝トメ(45度)に止めていたところがはずれ、私は放心状態。
売れたのだから修理しなければ、と思ってはいましたが、すぐ手直しする気力もなく、数日はほったらかし。
数日経って、そろそろ始めるか~~と、思って作業場に入ってみれば、、、、、。感激。先生がトメの外れた部分修理をしていてくれました。それ以外は、思ったより損傷が少なかったので、無事元通りになりました。
その作品、無事、某デパートに引き取られていき、その後もすぐ売れてしまったということでした。私としては、材料代だけだからな~~。買った方は儲かったですね~~と、特に感慨はなかったです。
しかし、卒業して数年後、私の作品は売らずに校長室に飾るべきだったという先生もいらっしゃったし、友人はあれを、また製品として作って売ったらという方もありました。でも、私としては、あの作品は、私の高校時代のひとつの思い出として取っておきたかったので、その作品はあとも作っていません。図面も型も全部捨てました。残っているのは、卒業写真の中だけです。
「おまえこれ習ってたら?将来うちでも使うかも知れないから」と、いまから38年前、当時16歳の私に、亡父が福岡のコンピュータ学院の看板みて言ったのでした。
正直いって、この"将来うちでも使うかも"、という言葉には驚きました、当時のコンピュータは、リースで当時月25万円。しかも、コンピュータ自身が熱を出すものだから、冷房のガンガン効いた部屋で専属が何人かいるというしろもの。零細企業が使えるなんて、夢また夢の世界でした。
でも、なんとな~く面白そうだったので、高校生時代に毎週日曜、その福岡のコンピュータ学院に2年ほど通いました。来ている人は、おじさんばかりで、16才なんて当然私一人。当時のの高校生とはかなり違う過ごし方したと思います。
大学級の数学をやる羽目にもあいましたが、なんとか卒業。でも、講義中心で、ほんもののコンピュータが使えたのは2年で2回。しかも、紙にプログラムを書いて、専属の方に渡すだけ。ラインプリンターといものが、ガチャガチャと文字を打ち出したらご正解という感じでした。
高校卒業して、数年経ってから、当時50万円の電卓式コンピュータを買ってもらいました。車はいらんケン、コンピュータ買ってと。しかも、これで統計して売上げの予測ができると両親をダマくらかして(^^;)でも、電卓。ステップ数250では、さすがにどうにもならず、サーマルプリンターも20桁の数字しか打たず、結局、たいして使わずお蔵入りしなりました。
それから数年経って、世の中にマイコンという文字が氾濫し始めました。マイコン???、パソコン???、コンピュータ???。よく分からず福岡のカホ無線に2度程セミナーを受けました。高校生くらいの奴が、カセットテープに録音??再生??しかも、脇目もふらずで、異様な雰囲気。う~~んワカラン。
それから、また、数年後。
そうか、あれは、コンピュータだ!パソコンだ!と分かった時には驚きました。モニターがあってキーボードがあって保存できるものができていたとは、ほんとに驚きました。驚愕した。私の習ったコンピュータは、専門のオペレータしか触れなかったのですから。
それが、自分の手で見てやれるのには驚き、ショックでした。高校生が使っていたのは、シャープのMZシリーズでした。
この時、NECには、PC8001がありましたが当時で、28万円くらいして、高値の花でした。昔のこともあり、両親にねだるにも、ねだられないのでした(^^;)
やっと買ったのは。PC6001です。発売前から予約しました。ほとんどの周辺機器も10万円程度でしたので、ボツボツと買い集め、ほとんど試しました。音声合成、フロッピーディスク、タッチパネル等々、驚くことばかりでした。
ソフトも驚きました。ベーシックでボツボツ試していたのですが、ショップでゲームソフトが発売されたということで買い求めました。3500円のアスキーのものでした。しかも3本も入ってました。ケースも立派でした。ハートとか、数字がペコペコでできてやっぱり作ったがましだったかな~~と思う程度かな、と思っていたら、これまたビックリ仰天、動くですね3Dで、しかも高速で。マシン語で書かれたいたもので、驚き桃の木、山椒の木でした。
フォートランを習っていたので、ベーシックのソフトを作るのは楽しかったです。大きいのは、財務会計ソフトを作りました。でも、誰でも、使えるソフトを目指し、エラーチェック部分をかなりやりましたので、いままでに書いたことない500行となりそれでも、一年経ってもエラーででる始末で、試算表どまりでした。
そうこうしていたら、フロッピー2ドライブのPC8801MR2がでました。やっと会社で購入してもらうことに。財務会計ソフトとワープロと表計算ソフトを一諸に購入。財務会計ソフトは2万円程度のもの、期待してなかったものの、こいつが凄かったです。私が1年かかってもできなかったものが実現していたのでした。ビックリ仰天。その後、ブログラムは作るより、プログラムを活用しようととを心に誓うのでした。
それ後はパソコンの歴史ともに進み、DOS→DOS/V→WINDOWS→インターネットとなり重宝にパソコンを使う毎日になったワケです。
私にとってパソコンはノミとカンナと同じで、道具でしかありません。
泥棒はあるもの持って行くだけだが、火事は全部持っていく。と言われるくらいに、いっぺんで0になる。災いは忘れたことにやってくるものです。師走に入り気を引き締めていきたいと思います。
ということで、我が家、我が会社であったことを思い出してみます。
私が消火器の効果に驚いたのは中学校での消火訓練。校庭に油をしみ込ませ廃材を2mほど積み上げられたものに火をつけ、消火するというもの。これが泡消火器10本一斉にやっても、なかなか鎮火しない。なんとか消火したものの、消火器では、たいした効果はないな~~と思いました。そして、もう1度、火をつけられました。今度の奴は新型ということで、粉消火器を披露されました。ビックリでした、驚きました。たった1本の消火器で、一瞬にして消火してしまったのです。
そのことを家に帰ってすぐ、おやじ、おふくろに話、工場の消火器を随時、粉消火器に替える薦めました。
そして、それを高校生の時バイトで工場の手伝いをしていた時に使うこととなりました。それは、乾燥機を灯油でやっていたのですが、時々詰まって火が付かないことがあったのです。職人が集まって、修理をしていた時のことです。灯油が漏れている下におがくず、しかも、小さい火種がまだあるというのに、そのまま修理をはじめたのです。危ないな~。火が付いたら消火器だなと、思っていた瞬間、こぼれていた灯油に火が付き火柱に。職人達の衣類に燃え移ることはなかったものの、想定外で慌てるばかり。
私の頭には消火器ということは、修理みている段階からあったので、一目さんに消火器を取りに。初めての粉消火器。グリップを握りしめたら、ほんとに一瞬で消火してしまい、大事にはなりませんでした。
その後、新工場ができた頃のこと、火が見えないのに焦げ臭い。工場内で火を使う場所もない。おかしいな~と思ったら、機械の側に火を発見。こちらも粉消火器で一発消火。原因は、機械についているノコの切れ味が悪くなって、切った木粉がお灸みたいになってくすぶり、それが火種となってました。
また、休日に簡易エレベータの補修を鉄工所にやってもらっていた時のこと。煙感知器が鳴りだした。行ってみたけど、2階の様子は変わったことはない。溶接の煙だろうと思った。そしたら、焦げくさい臭いと煙が1階から。溶接の火花が、エレベータの下のゴミに火が付いていたのでした。即粉消火器で消火。
私がいないときにおこった事故としては、平屋だった頃の自宅の天井裏の火災。火災報知器がなったもののどこか不明。弟が、エアコンの穴の隙間に火を発見。天井裏に粉消火器を放射してことなきを得てました。この時、たまたま近所の人が集会で家に集まってましたので、消防署に通報されて10台ほど集結。私は、外出先で、火事でおやじが亡くなったと聞かされ、ビックリして、家に駆けつけてみれば、消防車も帰って、おやじが事務所のソファーでくつろいでました。それをみて安堵。腰砕けになってしまいました。
それと、うちの従業員の所が、全焼ということもありました。仕事していた時サイレンはなっていたのですが、よそ事。帰ってみたら全焼。しかも、息子がみあたらず焼死かと心配されましたが、別の所にいて無事。息子の放火も疑われましたが、原因不明でした。ほんとに、全部無くして途方にくれた顔がいまでも印象に残ってます。
うちの会社兼自宅は町の一番南端。消防署は隣町。道路隔てて隣は倉庫。類焼の心配はあまりない。そんなところですから、たぶん通報しても、到着までにそうとう時間はかかると思われます。自力で火が小さいうちに消さないと、全焼になる可能性大と思ってます。感知器は感度のいい煙感知器、消火器は粉消火器と一酸化炭素消火器(まだ出番はない)と、火を出さない、かりに出ても小さいうちに消すという心構えと体勢はいつも整えています。
火の用心
裁判員制度スタートで思い出したことがあります。
うちの亡父は、若い頃は裁判傍聴が趣味だったことを話してくれたことがあります。具体的にどういう事件でカクカクしかじかと内容は話すことはなかったのですが、関係者には悪いが、暇潰しとしてもってこい。傍聴は0円、映画ではない"生"の人と人とのぶつかり合い、いろんなことが参考になる、などと言ってました。
私も、一度だけ裁判傍聴したことがあります。ほんとに、映画のセットのようです。ビンと張り詰めた空気の中で行われる淡々として審議。私の趣味にはチョットムリ(^^;)
夏でもないのにベンチャーズの話題でも(^^;)
というのは、たまたま古い友人にあったので思い出したのでした。それは、中学2年生頃だった思います。友達3人で試験勉強をしようということになったのでした。あまり勉強のできない私には苦痛(^^;)。2人とも秀才だったのです。一諸に徹夜してやろうというのシブシブ賛同。でも、各自の能力が違うから、当然かみ合わない。
夜中にラーメン屋さんの出前喰ったのも初めてでした。それと彼が自慢げにみせてくれたのがベンチャーズのレコド。たくさん持ってて、アメリカで一番人気のグループと聞いもピンと来ず。レコード聞いてみれば演歌と歌謡曲しか知らなかった私には、ピンと来ず。
その後、20歳頃になってベンチャーズに目覚め(遅い!!)ギター買ってコピーしてましすね~。
しかし、このベンチャーズ、息が長いのにビックリしますね~。解散する前に、一度生で聞いて起きたいものです。それまで、頑張れベンチャーズ!!
現在の地に来て35年。当時を知る元社員が、近くまで来たからと、ひょっこりと来社してくれました。この元社員は工場長でしたが、新工場ができて1年くらいして独立されました。腕のいい別注家具メーカーとして名前が知れるほどになっています。
その当時をちょっとふり返ることができました。工場と住まいを、現在地にしたのは、小さいながらも、本社、第一工場、第二工場とバラパラにあったものを一箇所にしたのです。(親父、おふくろが)
会社全体では約30名ほどいましたが、新工場に来てくれたのは、女子が4名、男が1名。その男子一名が先日きてくれた方です。急募して15名ほどにはできましたが、素人集団。私も会社に入って一年目。工業高校の工芸科で、一応木工の基礎は教わってきましたが素人同然。機械も新型が据わったこともあり学校と大違い。新米の私が、ズブ素人に指導もせにゃならない。
新工場ができて、ほっとしたのか、親父もおふくろ、あまり工場にも入らず5時で終業。日祭日は休み。工場長を任されていた、元社員だけが大奮闘で、口には出さなかったものの、新しい工場で家族は勿論、一致団結してバリバリという雰囲気にならなかったのが、いま考えると不満になり、他社に行くのも、いまでの恩に義理立てできないので、思い切って独立されたのだろうと思います。
独立の噂が流れた時、私は信じられないと思いました。その人が抜けたら、トップして引っぱり役は、工場では素人同然の私しかいないのですから。ウソであって欲しい、間違いであって欲しいと願いましたが、思い空しく独立されていきました。
残った、私は、どうしたものかと、途方に暮れた、、、、という余裕はなく、いまいる社員にどう仕事してもらい、また、どう仕事の段取りをつけていくかが、毎日毎日の課題でした。親父は太公望よろしく毎日釣りだもん。とはいうものの、資金繰りのことで、親父もおふくろも、頭がいっぱいだったと思います。
しかしながら、私の当時の苦労は創業者と同じと思います。新しい場所、新しい人、新しい機械。まさしく、1からのスタートだったのです。それをいま知っているものは、その元社員のみでもあります。
こら~!!と、木刀持って追っかけられた。一目さんで逃げる。小道をクネクネと。走りながら追っている足音に聞き耳を立てる。路地の角に来て、さらに、聞き耳を立てる。ふゅ~~、もう追ってきてない。一安心。
さざえさんと、カツオではありません。私が小学校3年頃の話です。おやじから怒鳴られ、さらに私が何か言ったと思いますが、木刀(木切れ)持って追っかけられたのは、この一度。一度だけだから覚えてもいます。
当時の住まいは、一般道路から、奥まった細い道の先にあった。曲がり角が5箇所くらいあったと思う。あとで考えてみたら、本気で追っかければ、それは大人と子供、すぐに捕まるが、一般道まで追うと車にはねられる危険もあるので、角2つで、追うのをやめたのだろうと、子供ながら思った。
う~~ん俺の負けだ。その後は、追われるという悪さはしなくなりました。
左の写真のような、大人用自転車しか、うちにはなかったのでした。車体も重い。ペダルも立ち漕ぎしないと踏めないほど重い。サドルも高い。当然足も付かない。これで乗れるようになること自体、至難の業だったのです。
友達は、み~~んな補助輪付き練習して、こともなげに乗り回している。
なんとか俺も乗りた~~と、何度か挑戦すれど、自転車が倒れると、自分も転ぶということを繰り返していた。自転車が倒れると大切ものを壊してしまう気がして悲しくなったりもした。
そんなある日、いいアイデアが浮かんだ。倒れる際に片足で立ってみたらと。やってみたら、うまい具合に自転車が倒ても自分は転ばず立つという技を習得した。自転車が壊れても、乗るんだ~の意思がメラメラとあったのでした。
自転車に乗れた日は、いまでも忘れることができない。
小石のない神社の境内に行った。平坦で土。ここで転んでもケガすることもなさそうと思った。その場所はいまでも、しっかり覚えている。そして、弟に自転車の後を押さえてもらって、高いサドルにまたがる。そして私は、立ち漕ぎでスタートする。弟は後で介助。うまく走り出したら手を離せ、と言っていた。
立ち漕ぎでスタートしたら、結構長い距離、タブン5mほどだったと思うが、弟に手を離せ、と何度か言った。そしたら、思ったより後の方で、離してる、と声が。えっ!で、ドタンと倒れてしまった。でも、それが初めて乗れた瞬間だったのです。
数ヶ月後、私は、友達と一諸に自転車で小山を駆け上ったり降りたりしてました。友達は早くから乗れているので、ワザと狭い道や、急勾配を行く。遊びながらも特訓されられていたのでした(^^;)
私の子供達には、補助輪付きの自転車を買ってあげましたが、すぐ裏に隣の駐車場が200坪ばかりあって、しかもコンクリート。ずぐ乗れるようになって、補助輪も邪魔と、いつの間にか取ってました。親父の見せどころはありませんでした(^^;)
"けいてんあいじん"と読みます。
常に公明正大謙虚な心で仕事にあたり
天を敬い、人を愛し、仕事を愛し
会社を愛し、社会に奉仕する心
当社の基本、当社の社是です。先代の故会長(おやじ)が、決めたものです。
この社是がどうしてできたかといえば、個人事業所から法人になった、20年ほど前にさかのぼります。某新聞に広告をしょうと、それも単発でなく、年間計画として。某新聞提携の広告代理店がやってきました。そして言われました、「私らも、ちゃんとした広告提案をしたい、御社の社是、社訓ありましたら、それもお聞きしたい」と。熱心な営業マンで、言われれば確かに、広告するのに、会社の方針も知らないでは、めくらで鉄砲打っているのと同じ。広告は会社の表玄関であり、いろいろなことを加味して広告を考えるのはもっともなこと。
しかし、、、、だが、、、、です。
当時、社是も社訓もなかったのです。言われてショックでした。営業マンは、当然それは"ある"という前提で話されたので、「ありません」といえずじまい、次の機会にお渡ししましょう~と、繕った感じになってしまいました。次に合うのは2週間後、故会長(おやじ)、故社長(おふくろ)、それに、私と、喧々囂々。社訓は早くできたのですが、社是が思いつかない。
何日か後、故会長(おやじ)が、これに決めた!と、書いて持ってきたのが「敬天愛人」。西郷隆盛の座右の銘。ひとことで言えば、"お天道様はお見通しだよ"ってこととなりますが、解釈を、社員にも、対外的にも、分かり易いものにと書き加えました。
当社の事務所に一枚、自宅の客間に一枚と、二枚の書は、親父の直筆。仕事でも、家庭でも、これを大切に生きて欲しいと願いが込められているものと思っています。
写真は、故父であり、故会長である、彫刻家としての名刺です。本人自ら、わざわざ和紙の産地に出向き探してきた、趣のある厚手の手漉きの和紙です。文字はすべて自筆。一枚原本書いてもらって、あとは私がコピーして作ってあげました。
故父は二科展、日展には出品しませんでした。私はどうして出さない?と聞いたことがあります。答えは両展とも、彫刻といえば、木彫のみでなく、鉄、石、ガラス、石膏などで作ったものをいう。"木調"という分野があれば出すが、なんてもかんでも総称して彫刻と呼ばれては、出展する気がしないと言っていたことを覚えてます。
”純木彫刻家”とは、故父の貫いた意思でもあるのです。
当社(総桐箪笥和光)のショールーム一角には彫刻ギャラリーを故父の遺志にて併設いたしております。お立ち寄りいただきますならば故父も喜ぶと思います。
純木彫刻ギャラリー
運転免許取って10年目くらいだったと思うが、駐車違反、スピード違反等の小さい違反が積もりに積もって14点まで行ったことがある。あと1点で免許取り消しである。
ここ田舎は、バスとか電車などという交通機関はない。車という足がないと、どこにも行けないのです。もちろん当時は営業の外回りもしてましたので、運転免停がないと仕事ができなくなるということになるのでした。
それで一年発起。もう絶対に交通違反はしないと心に誓いました。そして1年間、無事故無違反で0点に戻しました。
それはそれは我慢と辛抱の一年でした。なるべく運転しないのは勿論ですが、運転しても、標識ど~~う。速度も法定速度内。ちょっとでもオーバーして捕まって弁解もしたくない。後の車からからビービーとクラクション慣らされても、こっちは免停寸前だぞーーと、勝手に追い越して行き上がれとテレパシー。さすがに延々とは気の毒なので、適度な所で停車して、追い越させてやってましたが、じろじろと見ていくバカ野郎もいました。
それで、一年頑張りまし~~た。やればできる!!晴れて0点に戻りました。それ以来、あんまり免許見せてないような(^^;)
亡くなった親父がは喰っていたことを思い出しましたが、寄生虫の住み家で喰ってはいけない魚ということを知らなかったのでした。佐世保から、大川に来て、釣りの好きな親父は、引きが強く、デカイ魚に喜んで、こともあろうに刺身にして喰っていたそうです。喰ったあと、お腹が痛くなるので、どうしたものかと思って地元の人に聞いたら、タイワンドジョウは毒があって喰えないと知りビックリしたそうです。
私が、2~3歳頃の話で、私が小学生になった頃には、友達から聞いたりして喰えないと聞いていたので、親父が喰ったことあるにはビックリです。母は気持ち悪い~と、母もですが、私にも喰わせなかったそうです。女の感は鋭いですね。
親父は戦争にフィリピンに行っていたので、なんでも喰えると思っていたのでしょうね。
幹部の仕事を一言で現すならば、"経営参謀"ということになると思います。
前社長(平成三年没)下では、私の役職は専務でした。役目は、社長の補佐としての、助言・進言をし、まさしく経営参謀役を担い、経営というものを学んで行っていたと思います。
写真は、"孔明扇"というものです。本日、事務所に飾りました。これは、中国は、三國志時代の名軍師、諸葛亮孔明がいつも手にしていたとされるのがこの扇子で、孔明のシンボルとも言える扇子です。
三國志は経営のバイブルとして読んでいた方がいいという本ですが、私は、三國志を30年ほど前から熟読し、解説本は書棚に100冊以上、ビデオも100巻近くあり、隠れ三國志コレクターです(^^;)
いまの経営参謀は、専務、常務、工場長、それにカミサンです。
棒尺と言われるもので、上記は長さが約180cmほどあります。これが作れるのも、職人技の一つでしたが、現在は使われていません。
私が入社した時、図面というものはラフスケッチ程度しかなく、寸法はすべてこの棒に墨を付けて記してありました。墨付けは、すべて実寸です。幅に関したものを前面に、高さに関したを横面に記します。切ったり削ったりしたあと、これでチェックするのです。実寸ですから、製品毎に、一本つづあることになります。左のような複雑なものも、棒尺一本で記すのです。 古参の職人は鉛筆で墨つけしてましたが、私はナイフで筋を付けてから、墨付けしてましたから超正確でした。しかし、夏場、冬場で若干、木材が伸び縮みするのでロットが残ると、次のロットでは、長さが合わなかったりでした。
現在は、数値入りの図面を作り、その数値をもとに、長さ、幅はコンピュータ制御のマシンで切り、厚みはノギスを使うようになって、棒尺は無用の長物となりました。
♪吹けば飛ぶよな将棋の駒に~、は、将棋の鬼と謳われた坂田三吉名人の心意気を歌った村田英雄の代表曲『王将』です。その中に、「♪愚痴も言わず~に、女房の小春~」という一節がででくる。
この一節には、前社長のおふくろは、大嫌いだった。「愚痴も言わない?、我慢するだけ?、それからは進歩はない!というものだった。
これは、社員に創意工夫する際に、繰り返し言ってました。使いにくい、やりにくいと、だまって仕事するより、愚痴を言ってみれば、そこが問題の発見点。そこには、創意工夫はなんぼでもあるハズ、女房の小春ではダメと言ってました。
私も、社員にそのような言ってますが、うちのカミサンが最強(^^;)、よくウダウダ愚痴をいいます。遠慮なしです。それを、なだめたり、すかしたり、そして解決するのが、社長の私の役目(^^;)NHK教育の「知るを楽しむ」で仏像のシリーズが放送されてました。おやじは神様もですが仏像も作ってましたので、なんでおやじが仏像を彫るようになったのか、彫る気持ちになったのがいまだに疑問で、その放送でなんか分かるのではと8回シリーズを目を凝らして観てましたが、結局分からずじまい。
その放送をみながら、いくつか思い出したことがあります。
おやじは、とにかく彫ることにかけては、ほんとに寝食を忘れるほど。晩年のある日、「飯喰う時には彫るのを止めるから言ってくれ」って、私、カミサン、おふくろ、兄弟、子供達の家族全員に宣言。なんで、そうしたかといえば、「ご飯よ」といっても、彫るのに熱中するので、ほんとに飯を食べるのを忘れてしまうのです。しかし、体力がなくなっていたので、熱中したあとの数日間は、具合が悪くなって好きな彫刻ができなくなるのでした。それで、好きな彫刻をやれるように、仕事の切りが悪くても、キッチリ食べる、キッチリ寝るが優先という宣言だったのです。
また、おやじは、上野の西郷さんや渋谷のハチ公像のように、外に置く彫刻を好みませんでした。彫ったものが雨ざらし陽ざらし、あげくの果ては鳥の糞まみれには、納得できなかったようです。家の中に、木彫で置くが大前提だったようで、それにそぐわない仕事は大方断っていたようです。それでも、数点は断り切れず、外置きのブロンズの作品がありますが、それらの原型は木彫でした。
二科展、日展に、おやじは作品を出したことはありませんでした。それは、彫刻として、粘土も、鉄も、石膏も、木彫も、ひとくくりに彫刻としているのに不満をぶちまけてました。写真は、おやじの「半顔」という高さ40cmほどの作品。
その他は純木彫刻ギャラリー:加島香清 純木彫彫刻家でみて下さい。
私が入社した当時、職人は、横切りという機械で、毎回合わせました。まさしく職人で。合わせるのに10分(私がやると30分)。それで製品の材料切るのは5分。しかも、その横切りは古くって微妙に振動するから、なかなか合わない、あったと思って切り終わって、チェックすると微妙に違ったりするのです。あとは、接着する時に強引に絞めて接着したり。職人は、あとでカンナで削ったりしてました。
正直ムダだな〜と思ってました、でも新参者、数ヶ月は言われた通りにやってました。しかし、我慢できなくなって、自腹と時間外で、"留めジグ"というものを作りました。それは、横切りでなく昇降板という機械で。機械の上面にアリ溝(台形状)が2本掘ってあったので、それを利用して、その溝を滑らす台をこさえました。アリ状になっているので、滑らしても台はぶれないのです。それを作ってから、ノコに対して45度のサンを接着剤と釘でしっかりと固定しました。。
こうすると、毎回45度を合わせる手間もいらないし正確なのです。職人は、しばらくは使ってくれませんでしたが、数ヶ月後は、私の作った"留めジグ"は、必需品となってました。写真にあるのは2作目ですが、[S60年制作]と、私が書き記した文字がはってました。いまだに現役で、桐たんすの留めは、すべて、この"留めジグ"が活躍してます。
ところで、"留めジグ"は正確45度。材の幅、厚さ、長さ、堅さで、+αの角度を持たせるにはどうするか???これは使ってた職人が生み出したものですが、留め定規と材の間に、紙を手前挟む、奥に挟むことによって、微妙な+αの角度を持たせるようにしているのでした。
当時の食生活をふり返ると、小学4年生頃から、夕飯は私が作ってました。親父とおふくろは、自宅から10KMほど離れた、工場の方に行ってて帰りが遅かったのです。学校から帰ると、白米4:麦3で7合仕込んで電気がまに入れてON。焚きあがる迄に、先日買ってきてある魚を、醤油+水+みりんで煮付けにする。料理といったらこれでおしまい。あとは、漬け物と、いりこと、削り節。私は、この3つを混ぜるのは、いまだにスペシャルなおかず(^_^)
と、野菜がほとんどない。こんなのばかり、腹一杯くっていたので、栄養が偏り、栄養失調がハンクンになったようです。
ある本で読みましたが、漂流してある島についた10名ほどが、食料として毎日、海鳥を喰っていたそうです。そしたら次々に病気で死んで行く。病名がかっけで、その原因が、鳥をだと分かったもの1名だけが助かるというお話。
満腹=健康、ではないということを、思い出しました。